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SAカレッジ22年度 コースⅢ第5回月例会 質疑セッションがありました

2022年08月18日

佐藤 弘夫 名誉教授「感染症と日本人―なぜ疫病神は「神」だったのか」

 

SNS220817-212022年8月16日、SAカレッジコースⅢ第5回月例会 質疑セッションが開催されました。講師は、文学研究科名誉教授の佐藤弘夫 先生。テーマは「感染症と日本人―なぜ疫病神は「神」だったのか」でした。

 

質疑セッションの前に、佐藤先生からミニ講義がありました。「大変な時代になってしまった。戦争の危機がこれほど感じられることはないし、また三陸の海で泳げばプラスティックの無数の破片が漂っている。そんな状況の中、私たちはどういうふうに生きていけばいいのか。文学部では明確な答えは出せないが、考えるための素材を提供することができる。私たちのいる座標軸を100年単位・1000年単位で考えるにあたって、その考える素材を提供するのが文学部の使命であると考える」というお話から講義は始まりました。

 

どんな時代に生きているのか

社会・世界は人間が作っているというイメージがあるが、これは近代的な発想である。時代をさかのぼると、人間だけでなく無数の存在がこの世界を作っていたため、そうしたものたちと調和して生きていくというのが理想だという発想があった。しかし、近代では、それらを排除し人間の権利が格段と大きくなり、ある意味生きやすい時代になった。緩衝材が消失し、とげの生えた人間同士がぶつかるギスギスした社会になってしまった状況で、「パワースポット」「ペットブーム」「ゆるキャラ」など新しい動きも起こっている。これは、人間じゃないものや、目に見えぬものを取りいれている動きといえる。

 

映画「チロンヌプカムイ イオマンテ」

1960年代から日本とアジアの民族文化を撮り続けてきた北村皆雄監督の、2021年に製作された映画「チロンヌプカムイ イオマンテ」は、アイヌ民族の知られざる祭祀「チロンヌプカムイ イオマンテ(キタキツネの霊送り)」を記録したドキュメンタリーである。1986年、北海道屈美幌峠で75年ぶりに行われたこの儀式は、「わが子と同じように育てたキタキツネを、神の国へ送り返す。」というものであるが、これにはどのような意味合いがあるのか。

 

狩猟はアイヌの人々にとって重要な生活の糧

アイヌの世界観では、クマやキツネの魂はふだん天上に暮らしていて、子供がふやせないなどの理由で地上におりてくる。そのときに肉と毛皮を身に着ける。狩猟でそうしたものを狩るのは神様(カムイ)をいただく、ということ。イオマンテの儀式では、大事に育てた子どもの狐や熊を天上へ送り出す。魂になって天界に帰ったカムイは、地上でこんな大事にしてもらったと、肉と毛皮を携えて再訪する。また、地上の素晴らしさを伝え聞いたほかのカムイたちも、肉や毛皮とともに地上を訪れる。このようにして豊猟に恵まれる、という世界観である。私たちは子牛や子羊を食べる時に、その子牛や子羊について何か考えるか? 私たちに、このアイヌの世界観は何を示しているのか。

 

宮沢賢治の世界

架空の場所だと思われていた「なめとこ山」が、近年、実在していたというニュースがあった「なめとこ山の熊」。この話は、家族を食べさせるために仕方なく狩猟をしている淵沢小十郎という熊捕りの名人が主人公。小十郎のことが大好きな熊たちも、そのことを分かっている。熊のことばが分かるようになってきた小十郎は、母子熊の会話を聞いて胸がいっぱいになったり、殺そうとした熊に「二年後にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから待ってくれ」と言われたり、そんなふうに話は進んでいくが、最後に小十郎はふいにクマに殺される。熊は「殺すつもりはなかった」という。最期に小十郎は「熊ども、ゆるせよ」と発する。それから三日目の晩、山の上でたくさんの熊たちが小十郎の死骸をかこってひれ伏していた、という話。


二つの話から見えてくることとは

どちらの話も、人と動物が同じ次元にいる存在としてとらえてる。今も昔も殺すことに変わりないが、クマやキツネが「人は自分たちを殺す存在だけれどもやむを得ない」と思っていたり、動物に殺し殺されるたりするような大きな連鎖の中で、相互に敬意を払いながら共存していくという世界感がある。こういう世界観から改めて、私たちの今生での生き方を見たときに、何が見えてくるか。こういうことを考えていきたい、と先生は話されました。

 

質疑セッション

質疑セッションでの皆様からの質問です。
「こういう内容に触れる機会がなく、勉強になった。ミニ講義での映画の話で、当時のアイヌの方たちからするとポジティブな感情なのかと思うが、一方で自分はかわいそうだという感情を抱いた。我々現代人がこのような話にかわいそうだと思うようになった、過去から今への転換点みたいなものはあるでしょうか」
「人は主役ではなく、コロナはある意味警告であるという考え方について、ペストや飢饉など局地的な話ではなく、今回のようなコロナパンデミックにあたり、グローバル時代での世界共通理解というのは可能でしょうか」
「日々メディアをにぎわせている、ある宗教団体と国会議員の問題ですが、どんなところが問題だと思われますか」
「老人福祉施設でのコロナ感染者の看取りで「24時間以内の火葬を」と言われ、身内の方が来られないということで、最後まで執り行った。身内の方も混乱されており、葬儀もできず、こんなとき宗教はどう役にたつのでしょうか。また、どんなふうにお声がけしたらいいのでしょうか」などの質問がありました。

セッション中での先生のお話で

「イヨマンテでは延々と儀式をやる。子ぎつねはあきらかに怖がっていて最後には殺されてしまう。儀式をしている方も、かわいそうという感覚がないわけではないと思うが、自分たちの生活は生き物を殺さないと生きていけない。それをあるなんだかの折り合いをつけるのに、こうした発想が生まれ、世界観が生まれ、儀式が生まれていったのではないか。動物との儀式をおこなって折り合いをつけていこうという人と、それを全く忘れちゃって生きてる私たちとで、この差異をどう考えればいいのか。

スマート・エイジングもSDGsも、何のために節約したり物を大事にしなければいけないのか、理由がないと長続きしない。そうしたときに、こうしたアイヌの世界観のような、ギリギリまで無駄に殺さず獲物は一つ残らず大事に使わせていただく。クジラもそうで、無駄なものはひとつもない。そうやって、神から与えられたものとして大事にする生き方と、現代と、どっちがいいかという問題ではなく、そこから今の私たちの生活を照らし出すようなことを、やっていく必要がある」という内容が印象的でした。

 

無意識に殺生し生きている現代。改めて今生きている自分たちの座標軸がどうなっているのか、どうしてそうなっているのか、ふだんあまり触れない領域の講義に、深く考えさせられました。

 

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ちなみにミニ講義の中でも紹介されていた、佐藤先生とも親交がある北村皆雄監督作品の「ほかいびと 伊那の井月」という映画は、長野の伊那谷を放浪した俳人、井上井月(せいげつ)の伝記。主演は田中泯さん、語りが樹木希林さんです。
そして次回、コースⅢ第6回月例会は、中谷友樹 教授による「COVID-19流行の時空間推移と人の動き」です。